以前と比べ、いただいた神伝の法やその他の行法の出来が良い日が増えてきました。
とはいえ所詮初心者、行法の成果に日々ムラができてしまうものです。 これは霊的修行に限った話ではなく、スポーツや習い事でも起こることです。 年数を重ねるのみです。
それでも、わざわざ上の方々を呼び立ててこんなしょうもない人間の面倒を見ていただくからには、毎回次第を成功させたいと思わずにはいられないのです。
【なにが辛いって、集中を欠くに決まっているだとか、何とも苦々しい気分だとかの日に行法に臨まないといけないことが少なからずあるのです】
雑巾をさんざん絞った後のバケツの水のような、そんな時に上の方々を呼び立てる日は本当に申し訳なさすぎて凹みます。しかし、自力でどうにもなりませんし、上の方々を呼ばなければ状況はますます悪化するものです。行じれば、先ほどまでの不調なんて知りませんよ?と言わんばかりに心身が健やかになることもあります。
とにかくその日の自分がどうであろうと霊魂方をお呼びすることしかできません。じつに無力なのでした。
【どうしてかほっとするのは、幽体の痛みを癒し終わらせてあげられるためでしょうか】
数百年経ってもさらに時を経てもなお、幽体にとっては過去世の痛みが終わっていないのです。 加えて、私たちは幽体を知らなかったために、それを酷使し続けたはずです。痛みは薄れることがなく、ずっとずっと今に在りつづけるのです。 あまりにかわいそうなことです。 神伝の法をすることでやっと、痛みを少しずつ終わらせてあげられます。
向こうのことなんて何も知りませんが、それでも幽体を労れることに安堵と遠い気持ちを覚えるのでした。
【なぜだかときめくのは、見えもしない幽体や霊体を成長させられることです】
私たちは肉体で生きている以上、幽体や霊体を見たり触ったりすることは叶いません。神伝の法で指導霊や幽体が何をしているのか、間違いも成果も、この世で自力で知り得ることは何ひとつありません。 どこまでもつづく深い雪をかきわけ歩くような、狂気的にも思える道のりです。
ところが不思議なことに、耳を澄ませば時折、わくわくときらきらが内緒話をしているのが聞こえてくるのでした。
これからも修行を重ねます。
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by円