近年の日本ほど、宗教が警戒され嫌われている時代を経験するのは、人類史上初めての事かもしれません。
もし宗教が、未開で未熟な過去の人類の妄想によって作り出されたもので、科学文明の発達した現代人にとっては、もはや不要なものであるのなら、それで良いのかもしれません。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
宗教とは、私達人類にとって本当に不要なものなのでしょうか?あるいは、存在価値があったとしても、宗教に依存しなければ生きられないような、弱い人間のためのものなのでしょうか?
このあたりで、1度立ち止まって、じっくりと考察すべき時であるように、私には思えるのです。
確かに、私達が宗教に対する警戒心を高めるきっかけになったような、重大な事件が引き起こされた事もありました。その他にも、宗教に関する様々な悪評が、世間を騒がせた事が多かったのは事実です。
しかし、もし宗教が人間にとって、必要不可欠なものだとすれば、たとえ本物の価値ある宗教が、世界にたった1つしかなかったとしても、私達には、それを命懸けで探す以外に道はありません。
そして、その本物の価値ある宗教が、世界から消滅して、1つもなかったとしたら、そこに残るのは絶望だけでしょう。
私は、人間の本質は霊的な存在だと信じています。そして、霊的生命体である人間にとっては、本物の宗教は必要不可欠だと思っています。
なぜならば、本物の宗教は、人間が所持している霊的身体(幽体)に、必要な栄養素(高級な幽気)を供給することが出来る、唯一の存在だと考えるからです。
幽体への栄養素の供給が断たれれば、幽体は栄養失調となり活力を失います。
そして、その不健全な幽体では、肉体の死後に、苦しみに満ちた下の世界に落ちて、抜け出せなくなる危険性が高まるのです。
残念ながら、それが真実であると証明する手段はありません。でも逆に、真実ではないと証明する事も出来ないはずです。
ですから、1度立ち止まって考えて頂きたいのです。
私が宗教的な世界に興味を持ったのは、幼稚園児の頃に、家族を交通事故で亡くした事がきっかけでした。
人間が死んだらどうなるのか?どうしても知りたくなったのです。
それは、人間なら誰でも持ち得る、自然な感情なのではないでしょうか?
それから何十年間も宗教遍歴を重ねて、言い換えれば、いくつもの宗教に入信しては失望するという失敗を繰り返して、もはや物質界には本物の宗教はないだろうと、諦めかけていた6年ほど前に、ようやく《契山館》という本物に辿り着く事が出来ました。
《契山館》は本物中の本物で、人類史上最高の《救い》への道が示されている《奇跡的な宗教》でした。
何度も宗教の選択を誤るという、失敗を繰り返した私ではありますが、本当に諦めずに探し続けて良かったと思っています。
どうか一人でも多くの方に、1日でも早く、本物の《救い》に手を伸ばして頂きたいと願っております。
その《救い》は、今、ここにあるのです。
byなおいー
なおいーさんに、そんな過去があったのですね・・・。人に歴史あり、ですね。
いつも思うのですが、この世を生きていると、どなたにでも宗教への気付きのきっかけになる出来事が何らかあるように思うのです。
それを見過ごすか、見過ごさずに考えるか、で、死後の状況が大きく変わってしまいます。
どうか無視せずに感じて欲しいと思います。
人類の歴史上、宗教が無くなったことがない事を考えると、例え神や死後の世界が科学で証明されなくても、「何か理由があるのではないか?」と思うのが自然だと思うのですが・・・
宗教を否定すれば、本当の意味での救いが無くなる現実がある以上、無神論者達は
死後、悔やんでも悔やみきれないと思います。
宗教は、お互いに争ったり、日本では大きな事件もあって、嫌なイメージの人が多いですけど、人間は死後も生き続けます。
しかも死後の世界には天国や地獄などの上下高低もあります。
下の世界に入らないように、出来るだけ上の世界に入るには、自分よりも成長した人に教えてもらうのが一番良いし、
今の霊的な環境を考えると、これ以外に救いは無いです。
霊的な事を自分よりも成長した人に教えてもらうって、宗教です。