先日、〈愛が世界を救う〉といった文言を目にしました。
宗教的な世界では、目にする機会が多い文言だと言えるでしょう。
スピリチュアリズムの世界などでも、〈与える愛〉〈無償の愛〉〈利他の愛〉〈神の愛〉等々、愛の大切さを強調した主張がなされています。
特に現在のように、コロナ・ウイルスの蔓延が続いていたり、世界情勢に不安があったりすると、愛に救いを求めようとする傾向が強まるのかもしれません。
しかし、いくら愛の大切さを、お題目のように掲げたところで、人類が救われるとは思えません。
なぜなら、宗教では昔から愛の大切さが説かれ続けていますが、人類が救われることはなかったからです。
どんなに肉体の脳で、愛の大切さを学んでも、半日食べなかっただけで、あるいは1日眠らなかっただけで、愛どころではなく、まずは食べること、眠ることが優先されてしまうのが、肉体を持った人間というものでしょう。
中には、悲惨な戦争がなくならないことをもって、神が存在しない根拠と考える方もおられるようです。しかし、戦争を起こすのは神ではありません。
人間が勝手に戦争を起こしておきながら、なぜ「神が存在するなら、戦争などなくなるはずだ」などという理論が成り立つのか、私には理解出来ません。人間は神の操り人形ではないはずです。
私は《契山館》と出会う前に、宗教やスピリチュアリズムの世界で、40年近く愛を学び、愛を深めようと努力したつもりでした。
しかしその間に、愛が深まったという実感も、霊的に成長したという実感も、全く得ることが出来ませんでした。40年かけても、愛によって私が救われることはありませんでした。
《契山館》では、愛の大切さを否定しているわけではありません。
この世においても、愛は必要でしょうし、《高級な霊魂》の方々は、愛の深い方ばかりなのだそうです。
しかし愛とは、教義として頭で学んで、戒律のように実践しようと努めるものではないと思います。
なぜならば、それでは私達は決して救われないからです。
救われるとは何よりも、肉体の死後に《幽体》で入る《幽質界》において、苦痛に満ちた下の世界ではなく、幸せに生きることが可能な、上の世界へと入れるようになることでしょう。
そのためには、この世で生きているうちに、何としても、《幽体》を健全化させておかなければなりません。
肉体の脳が、どんなに頑張って愛を学び実践したところで、別次元の霊的身体である《幽体》が、健全化することも成長することもないのです。
《幽体オーラ》が伸びていない不健全で未成長な《幽体》では、たとえ、この世で愛の深い善人であったとしても、《幽質界》では、上の世界には入れないという現実を、私達は忘れてはならないと思います。
私達は順番を間違えてはならないのです。
まず、《神伝の法》の霊的トレーニングを行って、《幽体》を健全化させ成長させることです。
《幽体》が成長すれば、魂の中の高級な部分が現れてくるようになって、自然に愛が表現出来るようになるかもしれません。
今こそ本物の救いは、ここ《契山館》にしかないと知るべき時のように、私には思えます。
この奇跡としか思えない修行法、《神伝の法》と出会うまで、私はずいぶんと遠回りをしてしまいました。
しかし現代は、もはや迷ったり遠回りをしている時期ではないように、私には思えてなりません。
ぜひ、1人でも多くの方に、1日でも早く、本物の救いと出会って頂きたいと願っております。
byなおいー
なおいーさんの仰る様に、人類は何千年の昔から「愛」の大切さを唱えてきました。それでも争いはなくならず、霊的現実は悪くなる一方です。
本当の救いは何なのか。
今一度、立ち止まって考えて見てはどうでしょうか。
愛も大事ですけど、愛だけじゃどうにもならない事もあります。
特に、法則はどうにもなりません。
愛で重力が無くなる事は無いです。
死後の世界の法則も、愛ではどうにもなりません。
まずは、死後の世界の法則を知って欲しいです。
「愛」というと、非常に高貴な感じがします。
ですが、そんな美しい言葉をいくら話してみても、真摯で冷静な方ほど、自分の中に「愛」とはほど遠い未熟さをお感じになるのかもしれません。
実際、人間は「愛」からほど遠い存在なのだそうですが、本当の意味で「愛」を自然に表現できる霊的に高貴な存在に、霊的トレーニングを通して繋がることが可能なのです。
人間にとって本当の救いは、霊的トレーニングにあります。