管理人Nさんより
『今日は一つ皆さまに質問があります。どなたでもご自由に参加してくださると嬉しいです。
実は、わたし自身は、神や仏や霊的なことなど、一切、信じていない無神論者なのですが、神や仏や霊などを現在、信じている方、もしくは以前、信じていた方がいたら、「なぜ神(仏、霊)などを信じられるようになったのか?」と言う理由を教えていただけますか?
また、以前信じていたという方は、なぜ今は信じなくなったのかも、教えていただけると嬉しいです。
皆さまお気軽にご参加いただけると嬉しいです。』
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と言う管理人Nさんからの質問に対して私はこう答えました。
『自分自身の中では完璧に整合性が取れていて非常にシンプルで簡易なモノなのですがコレを他人に伝えるとなると絶望的に難易度が跳ね上がります。
先ず大前提として人間の脳みその理解力を余りアテにはしていません(私自身も含めて)。
何故なら人間の脳は物質で出来ていて物理現象を捉える五感と言うセンサーを通して物質の世界を知覚し脳内に再構築しているからです。その上で肉体を維持し防御し生殖することを最優先に認知をして思考しています。コレは本来の自分自身のごく一部の表面的な意識に過ぎません。
私が霊的修行者となって5年程になりますが日々の修行で感じるのは人間より遥かに高貴で高い知性を持つ方々の絶対的な愛です。
ただ、この愛と言う表現は人間の思う愛とは、かなり駆け離れていて違和感があります。
それは私が考えうるに人間が言う愛とは自身の肉体の生存を最優先とした差別のことであり、その差別から生まれる執着そのものだと感じているからなのです。』
私はこう返しましたが皆さんでしたらどう返答するのでしょうか?きっと答えは人の数だけあって正しい答えなどないのかもしれません。
byゆたんぽ
※死後の世界の実際とそこに行き着く迄の法則を解り易く記した入門書とも言える良著書です。人生において一読の価値が必ずあります。
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僕は、小さい頃から科学が好きだったんですけど、科学では分からない事があまりにも多いんですよね。
そしてよく分からないまま、普段みんなが生活で使っているんです(笑)
なので今の科学では、分からない事が実際にたくさん存在しているので、死後の世界もあるかも知れないって、ずっと思っていました。
無神論者の管理人さんも、無神論者なのに何故神仏や霊魂を信じる人の考え方が気になったのか。色々な答えを見た管理人さんの、否定しようとする自分、肯定しようとする自分を分析して頂きたいですね。
私の場合、難しいことは考えず、何の疑いも無く信じていたので、逆に理屈っぽい無神論者の考え方が分かりません。なので無神論者には、基本接しません(^_^)
本物と出会う前は、漠然と神仏は存在していると思うけど、何故世の中はこんなに矛盾だらけなのか、そこに絶望を感じていましたが、契山館に出会えて矛盾が解けました。
会のHPに出会って、価値観をひっくりかえされたのが、霊的な事柄を信じるようになったきっかけの一つです。
神霊の存在を信じるようになったのは、ゆたんぽさんと同じく、霊的トレーニングの効果を実感したからです。
霊的トレーニングを実習すると、皆様お感じの通り肉体と違う部分が清まっていくのを強く感じました。私にも幽体があって、霊的な力を降ろしてくださる方が本当にいらっしゃるのだと、本当に驚きました。
この世には私より素晴らしい方々が星の数以上に大勢いらっしゃるのだから、死後があるということは、私には到底把握できない素晴らしく高貴な方々が当然いらっしゃる。
高貴な存在がずっと続いているということは、最高の霊的存在として神霊は実在するのだと、心から確信できました。
私が《死後の世界》や《霊魂》、《神仏》が存在するのかどうかについて知りたくなったのは、子供の頃、身近な家族を亡くした事がきっかけでした。
本格的にその答えを求め始めて数年で、多分《神仏》は存在するだろう、と思えるようになりました。
なぜかと言うと、当時、心惹かれていた宗教書を読んでいると、感動して涙が止まらなくなるような事が、よくあったからです。
その感動は、芸術から受ける感動をも超えたものでした。ですから、目には見えないけれども、この宗教的感動の根元であろう《神仏》は存在するのではないか、と考えるようになったのです。
しかし、まだ確信には程遠く、宗教的な感動から離れて、日常生活に浸っていると、《神仏》の存在に対して懐疑的になることも頻繁にありました。
私が本当に確信が持てたのは、《契山館》に入会して、その圧倒的な宗教的感動を体験してからかもしれません。
本格的な探求を始めてから、約40年もかかってしまいました。
その感動については、どんなに言葉を尽くしても、お伝えする事は無理でしょう。
言葉は肉体脳が生み出すものですが、本物の宗教的感動は別次元のものなので、言語化することは不可能なのです。
それは、音楽を聴いて感じる感動を、言葉で説明する事が不可能である事からも、ご理解頂けると思います。
残念ながら、言葉や理屈で音楽を知ろうとしても、その目的が達せられる事はないでしょう。
同じように、《神仏》を言語や理屈で知ることは不可能でしょう。
音楽を知るのは、とにかく音楽を聴いてみる事です。同じように《神仏》を知るには、《契山館》のような、本物の宗教を体験するしかないのかもしれません。
別の観点からのお話です。
先程のコメントでは《神仏》を知ると表現しましたが、正確に言えば《高級な霊魂》の存在を知るということになります。
人間が《神》の存在を実感出来ないのは、ある意味では当然の事です。
なぜなら《神》は、人間にとっては、あまりにも偉大で遠すぎる存在だからです。
《神》が私達に直接関わられる、などということは、通常、あり得ないことです。ですから、《神》に祈っても祈りが届くこともなければ、《神》が人間を直接救って下さることもありません。
そういう意味では、人間にとって実質的に、《神》は存在しないも同然だと言えます。
それだけ遠い存在の《神》ですから、一般的に宗教に登場する《神》は、本来の神ではなく、宗教家の脳によって創作された《神》にすぎません。そういう意味では、神は人間が創作したもので存在しない、との考え方が正しいとも言えます。
もちろんこれは、本来の《神》の存在とは無関係の話です。
あまりにも遠すぎる《神》の前に、私達が関心を持つべきは、《霊魂》なのかもしれません。
まず、《霊魂》が存在するのかどうか、それを探求すべきなのです。
《霊魂》が存在するなら、《死後の世界》も存在することになり、私達も死後は、そこで《霊魂》として存続するのかもしれません。
そして、神近き天使のような《霊魂》が、「《神》は存在する」と仰るなら、私達も《神》は存在する、と信じることが出来るのではないでしょうか。