愛犬とのいつもの散歩コースの、「何故こんなところに?」と言う場所に山羊が6頭います。(今は5頭になりました)
以前から感じていましたが、飼い主の性格なのか小屋や柵は雑に出来ており、ローカル感満載です。
飼い主は知ってか知らずか、そのいい加減さのおかげで山羊たちは自由に柵を飛び越え、隣の畑の作物を食い荒らしています。
そこの前を通る人たちや、小さいお子さんを連れた家族はその姿を見て可愛いと思うのかもしれませんが、さすがに畑を食い荒らすのは良くないので、役場に通報する人もいたり賛否両論です。
一週間ほど前の夜の散歩の時です。聞きなれない悲しそうな声で山羊が泣いていました。
懐中電気を当て覗いて見ると、一匹の山羊がいつも寝ている場所と違う所でうずくまっていました。
ウチの犬も耳を立て、様子を伺うような感じで普段あまり見せない素振りをしました。
「死ぬのか?」私はふと、思いました。
次の日の朝の散歩の時に、気になったので覗いて見るとやはり一匹死んでいました。中でも比較的ヤンチャな性格の山羊でした。
何か病気だったのでしょうか、昨日の朝は普通に思えたのですが・・・
私としては、あまり関心が無かったとは言え、いつも見る光景の中の山羊が死んでしまった事に少し悲しさを感じました。
問題はここからです。
その山羊の亡骸が一週間たっても未だに放置されているのです。餌を与えに来ている様子は伺えるのですが、亡骸は奥の方なので覗かずに帰ってしまい気付かないのでしょうか。
やはりいい加減さを感じてしまいます。
山羊たちも、初めはその亡骸を意識しているようでしたが、慣れてきたのか日常になっている様子です。こんな状況でも肉体と言うのは腹が減るので、いつもの様に餌を食べています。
少し腹が立ってきました。昔の様に乳を取るために飼っているいるようにも見えず、ただ好きで飼っているのかもしれませんが、適当すぎます。
ケースは違いますが、私は先生の著書の「ガンバレ動物霊魂」の中の動物園で一生を終えたシマウマの霊魂を思い出しました。
それを山羊たちに重ね、いろいろ想いを巡らせました。
「この山羊たちは幸せだったのだろうか。自由に柵を超えエサには困っていなかったとは言え、人間の都合でここで飼われ、一生を終える。兄弟の亡骸をそのまま放置されても自分たちではどうにも出来ない。それでも今日も腹が減るのでエサを食べている。
あの世に行った山羊も、何を思っているのだろう。せめて下の世界に行かなければ良いのだけれど・・・」
人間の傲慢さと、地上に生きているが故の肉体の不自由さに嫌気が差した今日この頃でした。
♬♪ お近くの支部集会へ、ご見学に来ませんか? ♪♬
以前、散歩中の飼い犬に蹴りを入れる飼い主の動画が話題になっていましたが、その飼い主はペットを大事にしている、蹴りはしつけだと言っていました。この山羊の飼い主も、決して悪いことをしているつもりなんてないのでしょうね。
私も犬を飼っていて、自分なりにかわいがっているつもりですが、本人(犬)が幸せに感じてくれているかどうかは分かりません。
それぞれ、ペット達を大事にしているつもり・・・。
どんな育て方をしようと、虐待しない限り、それは飼い主それぞれの自由ですが、そこに霊的な視点があればあっただけ、ペット達は死後不幸にならずに済みます。
動物には水波霊魂学を知る自由がないのだから、ペットの飼い主さん達は尚更死後の法則を知らなくては!
人間は本当に自分勝手ですよね~(-.-;)
でも亡くなってしまった1匹は、最後の最後にガンリキさんに会えて良かったかも?(*´艸`*)
神霊から見れば肉体の中に幽体を宿している生命は等しく愛しい存在だと考えているはずです。
多少の小賢しい頭脳と器用に動かせる手足を持っている程度で万物の霊長などと増長している人間は自然界の調和を乱すがん細胞に成り下がってしまったのでしょうか?
時々、自分も同じ人間であることに嫌気がさすことがあります。すべての生き物に対しもっと謙虚になることが霊的な成長につながる第一歩になると私はおもいます。(勿論、霊的修行は必要不可欠ですが)
飼育放棄とは悲しいですね。。。
私の場合、小学生の時に家に持ち帰ったカエルの卵を全滅させて以来、罪悪感とトラウマから「育てる自信がないから飼わない」という強い意思を持って、ペットは避けております…。(T_T)
そういう選択肢も必要ですよね。
日々、生きているものを殺して食べて、自分に害があるものは食べなくても殺して、つくづく、人間って生きてるだけで罪深いなぁ、と思います。
本日確認したところ、山羊は無事埋葬されたようです。霊魂学的には関係ないのかもしれませんが、とりあえず良かったです。