*一個人の経験談としてお読み頂ければ幸いです。
水波霊魂学を学びますと〈伝統〉だから、〈慣習〉だからというただそれだけの理由で、何も考えずに取った宗教的行動を恥じ、自責の念にかられることがあります。その一つが神社への行動です。
人生時として辛くなったり、悲しくなったりと耐え難い経験をすることは誰にでもあると思います。そうした時に〈自力で乗り越える〉ならば一番です。人によっては〈病んでしまう〉こともあるかもしれない。自分は〈神仏に縋る〉ことも一つの突破口だ、と過去そう思いました。日本には沢山の寺社仏閣がありますから。
自分の脳では解決できない問題を人間の世界を超えた存在へ投げかけるのだから(宗教的行動)、神や霊的なことを本気で信じている方々が神を敬い、霊的に高級な空間を維持するために日々ご努力を続けられる「神聖な空間」で祈らなければならない。綺麗に掃除された所か、文化財に登録された所か等を考慮に入れるのは重要ではなくなります。このような考えが纏まってきますと自分の過去の神社参拝やそこで入手したお札には、〈神〉を求めたのではなく〈ご利益〉を求めたと認めざるを得なくなりました。
入会後、神社参拝はやめ、いずれ処分する方法が見つかるであろうと考えていた「お札」は自宅にそのままでした。しかし、ご利益のために参拝していた神社へ戻す勇気もなく、自分のご利益祈願(欲望)の集積のお札に触る勇気さえもなく霊術をお願いすることにしました。
霊術依頼後・・・
・神様に一心にお願いすればよいという自己中心的な考え
・神社参拝とは、本来宗教的行動であるという認識の欠如
を反省し、神棚のお札や神社参拝に執着しながら幸福を願うよりも、霊魂学から霊的生命体としての人間を知ることで従来悩んでいた事の質が変化したので漠然とした強い不安が少しずつ減っていった、霊術を受けた後にそのような心の変化があります。
byくろもじ

ほとんどの人は、絶望の淵に立たされれば、神仏に縋ってしまうと思います。それが素朴な信仰心であれば仕方ないと思います。ですが、水波霊魂学を学ぶと、霊的な環境が劣悪な現代では、その行為が霊的な危険を招いてしまう事を知ります。高級な幽気、幽体の健全を語らない信仰は、危険な時代です。
誰でも生きている時は物欲がありますよね~。
でも自分勝手な物欲を神様とか高級な存在に求めてもどうにもならないです^^;
私には《契山館》と出会う前、全国の神社巡りを行っていた時期があります。
高級な何かを求めて巡っていたのは確かですが、全くご利益を求める気持ちがなかったと言えば、嘘になるかもしれません。
今にして思えば、私の幽体が良好な幽気に飢えていたのかもしれません。
かなり前のことなので、まだ質の良い幽気が残っていた神社が、あったのかもしれません。
後年、《契山館》と出会えて、初めて支部集会に参加した時に、「私の求めていたものはココにある。ココで間違いない」と、ついに本物と出会えたという確信を得ることが出来ました。
もう迷っている時ではありません。
今こそ《契山館》へ集って頂きたいと願っております。
どこそこの神社が霊験あらたかだとか、効能があるとか、正月の参拝番組でもよく放送されていましたし、今年もファッション的にそんな神社をお参りする方が大勢いらっしゃったことと思いますが、
くろもじさんの体験談から、霊的な存在に物理的なお願いをすることへの違和感を感じていただけたらと思います。
くろもじさん、お互い契山館に巡り合えて、本当に良かったですね!