早いもので、新型コロナ・ウイルスの蔓延が始まってから、2年半が経過しようとしています(2022年6月15日記)。
この間、生活に様々な支障が生じて苦労された方も、おられるかもしれません。
私も仕事量が減少した状況が続いていて、週末に仕事を休みにくくなってしまいました。
苦しいと言えば苦しい状況が続いているわけですが、個人的には、必ずしも悪いことばかりではなかったように思えます。
まず、仕事をする時間も、私用で外出する時間も減ったので、時間を気にせず、《神伝の法》の霊的トレーニングを行える日が増えたことです。
何と言っても、この事が第一でしたが、他にもいくつかありました 。
その中の1つに、久し振りに《水波一郎師》のご著書以外の書籍を、読む時間を確保出来るようになったことが挙げられます。
最近、40年ほど前、私が10代の後半の頃に読んだ、静岡県出身のある作家の作品を読み返してみました。
40年前の私は、その作品の主人公と同年代だったので、主人公に自己を投影して、時代は異なれども、主人公と共に人生を歩んでいるかのような一体感を覚えて、深い感銘を受けた記憶があります。
しかし現在、主人公の父や祖父ともなり得る年代となった私は、40年前よりも、ずっと客観的に冷静に主人公を観察することが出来たようでした 。
必ずしも感動が薄れたというわけではないのですが、《神伝の法》の合宿研修会などで、感動を超えた《本物の感動》を知った今となっては、とても《本物の感動》の比較対象になるものではなかったと思います。
決して文学作品の価値を否定する意図はないのですが、《神伝の法》の合宿研修会などで経験する感動が凄すぎるので、文学作品から得られる感動と、とても同次元で論ずることなど不可能なのです。
言い換えれば、それほど《神伝の法》の合宿研修会などが凄いと言うことです。
さて、本稿の本題はここからになります。
その作家の作品の中では、よく明治から大正、昭和初期の時代の、農村や漁村における庶民の生活が描写されています。
当時でも、東京などの大都市で生活していた方は、別だったかもしれませんが、農村や漁村の生活は、日常的に神と共にあったようです。
作物が実るのも実らないのも、魚が捕れるのも捕れないのも、太陽が顔を出すのも雨が降るのも、海が凪ぐのも荒れるのも、さらには、良いことが起きるのも悪いことが起きるのも、病気にかかるのも治るのも、全て神次第と考えている方が多かったようです。
重病人が出ても、呼んでくるのは医者ではなく、祈祷師というのが、一般的だった地域も少なくなかったようです。
また、地域に根差した宗教行事は最重要とされ、あらゆる個人的な事情よりも優先され、定期的に神社・仏閣を参拝する方が多かったようです。
もちろん、ここでの神とは、《水波霊魂学》で定義される《神》ではなく、当時の方々の《素朴な信仰心》によってイメージされた神であったと言えるでしょう。
当時の方々の信仰の形態には、《水波霊魂学》の視点からは推奨し難い点も多く、特に現代では危険性が高いものもあると思います。
ただ、まだ《素朴な信仰心》を失っていなかった当時の方々は、普通に生きてさえいれば、現代よりもずっと、苦しみに満ちた下の世界に落ちる可能性が低かったのでしょう。
この世で生きる時間は、長くても100年程度ですが、死後に入る《幽質界》での生活は、ずっと長く続いていていくそうです。
ですから《幽質界》で、幸せに生きることが可能な上の世界に入れるのか、苦しみに満ちた下の世界に落ちてしまうのとでは、雲泥の差があると言えます。
もちろん、現代を生きる私達が、明治や大正、昭和初期の時代の生活に戻ることは不可能でしょう。
また、現代の劣悪な霊的環境下では、当時のような《素朴な信仰心》を持った生活を送っても、それだけでは《幽質界》の上の世界に入るのは困難なようにも思えます。
現代を生きる私達に残された唯一の道、それは《神伝の法》の霊的トレーニングを習得し、実習を続ける以外にはありません。
どうか1人でも多くの方に、1日でも早く、その現実を知って頂きたいと願っております。
尊敬する方のお話を伺ったり、素晴らしい景色を見たり、書籍を読んだり・・・世の中には人を感動させる素晴らしいことにあふれていますが、なおいーさんが書かれておられるように、契山館の合宿で得られるものは、そういったものを完全に超越してしまっているんです。
そういう感動に出会ってしまうと、それまで感動していた本が薄っぺらいものに思えてしまう・・・というのは会員あるある話の一つと思います。
遊びもそうですよね。今まで楽しかったことがどっちでも良くなってしまったりします。ですが、地上に生きているのも現実なので、それなりに思い出作りもしています。
最近は昭和レトロが流行っています。本当に便利かどうか良く分からない便利さに皆さん疲れているのかも知れませんね。
これだけ科学が発達しても宗教がなくならないと言うことは、人間は自分でも気付かない部分で神霊に救いを求めているのだと思います。
救いの法は、今、契山館にあります。
科学が進歩して、素朴な信仰が無くなってしまいましたよね~(´・ω・`)
でも今の科学も分からないことは多いです!
目に見える範囲は、大体の事が分かって来ましたけど、
光を発しない、光を反射しない物質やエネルギーの事は全く分かっていません。
目に見える範囲の事だけ信じていたら、死後は大変な事になりますよ((((;゜Д゜))))ブルブル